古道具 中野商店 / 川上弘美


 
やな匂いって、何。
そう聞いたが、タケオはうつむいて黙っていた。
タケオが店の前に水を打っている間に、やな匂いのことを考えた。
少しわかるような気がしたが、タケオの思っているやな匂いとわたしの思うやな匂いはぜんぜん違うものだろう。
水を打ち終えて空のバケツを提げたタケオが奥に行きしなに、
「ほんとに自分ばっかの奴がやな匂いだし」とつぶやいているのが聞こえたが、
自分ばっかの奴という意味が、わたしにはよくわからなかった。

***

ヒトミさん、おれ、なんか下手で、すいません。
タケオが小さな声で言った。
下手って、なにが。
なにもかも。
そうでもないよ、わたしだって、下手だし。
そうすか。あの。
タケオは珍しくわたしの目をまっすぐに見ながら、言った。
ヒトミさんも、生きてくのとか、苦手すか。

***

「声、出すから、これからは」と言った。
は? と中野さんが頓狂な声をたてた。
声、出すから。だから奥さん以外の女にちょっかい、ださないで。

***

嫌いではない人は世の中にたくさんいて、その中でも「好き」に近い「嫌いではない人」がいくたりかいて、
反対に「嫌い」に近い「嫌いではない人」もいくたりかいて、
それでほんとうにわたしが好きな人はどのくらいいるのだろう、と思いながら、
わたしはタケオの手を少し握った。
タケオはぽかんとしていた。

***

マサヨさんの声はへんなふうに心地よかった。
あらあらどうしたのよヒトミちゃん、というマサヨさんの声を聞きながら、
わたしははらはらと涙を膝の上に落とした。
この気持ちよさは何かに似ている、と思った。
そうだ、ふつかよいの朝、吐く元気もないときに何かの拍子で思わず吐けてしまったとき、
みたいなのだった。

***

人間は、こわい。タケオはゆっくりと言った。
この一週間ずっと感じ続けていたわたしの中の「怖い」という気持ちが、
タケオのその言葉で、一時に噴きあがってきた。
そりゃ、怖いよ。わたしだって、怖いんだよ。
タケオが怖いよ、待つことも怖いよ。
田所だって中野さんだってマサヨさんだってサキ子さんだって、お鶴さまでさえ、怖いもの。
自分自身のことなんか、もっと怖い。
そんなの、あたりまえじゃないか。
そう言おうと思ったが、言えなかった。
わたしの怖いと、タケオの怖いは、きっと違うものだから。

***

タケオが急に抱きしめてきた。
くびすじに吹き込むだけでなく、上にかぶさっているタケオの体からも水が流れてきて、
わたしはもうびしょぬれだった。
タケオは強く抱きしめた。
わたしも強く抱きかえした。
今わたしがタケオに思っていることと、タケオがわたしに今思っていることは、
ものすごくかけ離れた、違うことなんだろうな、と思った。
その離れかたを思うと、めまいがした。

***

「あたし、恋愛が怖くなっちゃった」マサヨさんが歌うように言った。
「今ごろ、怖くなったんですか」
わたしが言い返すと、マサヨさんは、
「あらヒトミちゃん、言うじゃない」と笑った。
「性欲がほとんどなくなってからの恋愛の抜きさしならない感じが、
 ヒトミちゃんなんかにわかってたまるもんですか」

***

中野さんは今月に入ってからまた少し痩せた。
サキ子さんがきっぱりと中野さんに別れを告げたことは、少し前にマサヨさんから聞いていた。
男も女も、老いも若きも、恋が終わると痩せるのかな。
わたしは思ったりした。

***

「世界でいちばん愛してる」とマサヨさんが言った。
つぶやくのでもなく、声を張りあげるでもなく、ただの会話の続きのように、言った。
「え」と振り返ると、マサヨさんはむっつりした顔のままで、もう一度、
「世界でいちばん愛してる」と繰り返した。
マサヨさんに向き直り、顔を見たが、それ以上マサヨさんは何も言わなかった。
会社の退け時で、改札口から出てくる人がいくたりもわたしたちにぶつかっていった。
「丸山に、そのこと、言いそこねたわ」
人波が一瞬途切れたとき、マサヨさんは小さな声でそう言い、くるりと駅に背を向けて歩きだした。

***

ごめん。
小さな声で、タケオが言った。
え。
ヒトミさんに、おれ、ひどかった。ごめん。
タケオは言い、頭を下げた。
いや、わたしこそ、子供で。
おれも。
しばらく、二人で、なんだか頭を下げあっていた。
酔っ払っているせいか、涙腺がゆるくなっている。
うつむいたまま、ちょっと泣いた。
いちど泣きはじめると、そのままどんどん、泣けた。
ごめん、とタケオは何回も言った。
悲しかったよ。
わたしが答えると、タケオはわたしの肩に手を回して、少し抱きしめた。
  


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